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  • 中野 裕弓

母のこと

 

 

5月の第2日曜日は「母の日」
誰にとっても何かと母親のことを思い出すことの多い月です。

 

私の母、中野恵美子は3年前の冬、
86歳で天に還っていきました。
私の人生で最も影響を受けた母のことを
いつか書いておきたいと思っています。

 

思い返すと母の人生観、そして世界観が、
私の人生の元になっていると気付かされます。
幼い頃から教育熱心だった両親、
特に母の女性としての視点を通して
世の中を見、感じ、守られて過ごして来ました。

 

もし今、母がここにいたら
『人生は何が起きても何とかなるもの。
またその時々で 自分でできることで何とかしていくものよ』
と答えるのではと思います。

私たち姉妹は事あるごとに母からそう教えられてきましたし、
母自身、そういう人生を歩んできました。

 

 

母と私の人生は、幾つもの点でシンクロしています。

例えば、私が住み慣れた日本を離れたのは19歳の時、
それは母が初めて母国日本へ帰ってきた歳とほぼ同じ、
なんだか不思議な気がします。

そもそも私が短大1年生の冬、
仲良しのクラスメートが
『英国でホームステイをしながら
語学を学ぶ若い女性対象の
オ・ペアというプログラムを見つけた』
と誘ってくれ、二人で一緒に参加しようと親や学校や周りを説得しました。

四十数年前の当時は駐在員の家族でもない限り
若い女性が一人で海外に住むことは珍しい時代でした。
「本当に大丈夫なの?」と懸念する人もいる中、
両親は「行っておいで」と応援してくれました。

結局、英国行きのきっかけをくれた友人は
土壇場で参加を断念し、
私一人が休学してロンドンに行くことになったのですが、
初めての外国に単身で行くことに不安で心細くなった時、
母はこう励ましてくれました。

「私が日本という初めての土地に渡ったのも今のあなたと同じ歳頃。
慣れない土地で青春を過ごしたのだから、
これからイギリスに行くあなたも同じね。
大丈夫、なんとかなるわ、いってらっしゃい」

 

そして母はこう言ってくれました。

「私はイギリスには行ったことはないけれど、
世界中、人は皆同じだと思っているの。
嬉しいと思うことには喜び、悲しいと思うことには同じように悲しむ。
例え国が違っても、言葉や文化が違っても
根本的に人間は同じだと思うの。
そのつもりでこれから出会う人たちに接していけば間違いないわ」

これはまさに母の実体験からきた言葉だったと思います。

 

 

 

また、モスクワ経由でロンドンに出発する直前の羽田空港でのひとこと

「お母さんはあなたを信じているわ」

その言葉はロンドンでの2年間の生活のあらゆる場面で私を支え守ってくれました。
「信じている」の一言はなんとシンプルでパワフルな魔法の言葉でしょうか。
その後、私の英国での生活は3度に渡り 通算して9年にもなりました。
私の世界観が形成されていった貴重な青春の思い出です。

 

 

 

母がよく言っていたことがあります。

「私の青春は戦争があって色々自由には生きられなかったから、
私は今、娘たち2人の人生に“相乗り”して楽しんでいるのよ」

昭和3年生まれの母は台湾生まれの台湾育ち、いわゆる「湾生」です。

終戦までの50年間、
台湾は日本の領土として統治されていた島でした。

南国特有のおおらかさの中で育った母は
女学校まで台湾を出たことがありませんでした。
ゆえに母にとっては当時の日本列島は母国でありながら未知の“異国”でもありました。
だから私が同じ歳で異国の地に住むことを抵抗なく受け入れ 理解があったわけです。

人に優しい昭和初期の日本文化は、
おおらかな台湾文化と相まって独自の文化を形成していったのでしょう。
台中市にあった台中高女に入学した母は、
一歳年上の姉に続いて女学校の寄宿舎生活。

そこでの日々がいかに楽しいものであったか
時に触れたくさん聞かせてくれました。
毎日 得意の水泳に没頭し、
多くの多彩な友達に刺激を受けて
学生生活をエンジョイしていた母の若い頃の姿が目に浮かびます。

卒業を待たずして終戦を迎え、
生まれ故郷を去らなければなりませんでしたか、
楽しかった学生時代のこと、
学友たちとの友情は生涯を通して母の宝物、
生きる支えとなっていました。

日本人の女学校には台湾の人も少数在学していて、
そこにはやはり人種の壁もあったようです。
母は生涯、台湾の同級生たちとも親しい交流を愉しみました。

私も母と共に何度も台湾を訪れたのですが、
その度に集まってくれる多くの同級生たちから
「恵美ちゃんは私たち台湾人に対しても分け隔てない付き合いをしてくれた」と聞き、
まさにそれは母の生き方そのものだと思いました。

何ひとつ不自由のない台湾での生活は敗戦で全く変わりました。
当時18歳の母は兄姉、
妹弟たちとスーツケース一つに身の回りのものを詰めて
船で日本を目指すことになるのです。
一家で祖父母の故郷の仙台にたどり着き、
終戦後の混沌とした日本で青春の第二幕が始まりました。

 

その後、母は役所でタイピストの仕事をしながら、
弟妹たちの世話をし、
時間を作って全国に散り散りばらばらになった引き揚げ者の同級生に連絡を取り、
数年かけて同窓誌「せんだん」をまとめました。

母校の校庭にあったせんだんという樹のイラストの描かれた同窓誌は、
わら半紙を綴じただけのもので、
次第に色あせて四隅もぼろぼろにはなっていましたが
母は晩年まで大切にしてよく眺めていました。

 

 

後日談ですが、
母の亡くなる少し前、
「せんだん」2号が母の親友たちにより出版されました。

母は認知症を患っており自ら寄稿はできませんでしたが、
いつもにこにこ笑顔の母との対話の中から、私は母の思いを代筆しました。
生涯、友達との友情を大切にしてきた母、恵美子の思いが60年という歳月を経て
また新しい実を結んだ気がして感激でした。
人生はこうやって集大成されていくものなのだと感じ入りました。

 

 

86年間の波瀾に満ちた人生を力強く、
愛を以って生ききって卒業していった母を誇りに思い、
母の娘として生まれてきた幸せを有り難く思います。

 

 

 

 

ろみ

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COLUMNIST
中野 裕弓
人事コンサルタント
ソーシャルファシリテーター
中野 裕弓
HIROMI NAKANO
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19歳で語学研修のためロンドンに渡り、その後9年に及ぶ英国生活を経て、
東京の外資系銀行、金融機関にて人事、研修などに携わる。

1993年、ワシントンD.Cにある世界銀行本部から、日本人初の人事マネージャー、人事カウンセラーとしてヘッドハントされ世界中から集まったスタッフのキャリアや対人関係のアドバイスに当たる。

現在は一人ひとりの幸福度を上げるソーシャルリース(社会をつなぐ環)という構想のもと、企業人事コンサルティング、カウンセリング、講演、執筆に従事。 また2001年に世界銀行の元同僚から受けとったメッセージを訳して発信したものが、後に「世界がもしも100人の村だったら」の元となったため、原本の訳者としても知られる。

「自分を愛する習慣」をはじめ、幸せに生きるためのアドバイスブックや自分磨きの極意集、コミュニケーションスキルアップの本など著書多数。

2014年の夏、多忙なスケジュールの中、脳卒中で倒れ5ヶ月の入院生活を経験する。
現在はリハビリ療養の中で新しいライフスタイルを模索中。脳卒中で倒れたことが人生をますます豊かで幸せなものにしてくれたと語る。

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