今回のコラムより、ドクターリセラ誕生の歴史を紹介していきたいと思います。
私奥迫哲也は1964年、島根県江津市(ごうつし)生まれで、家族は曾祖父と祖父母、両親、そして兄弟は妹二人と弟一人。
先祖代々農業に携わり、祖父と父は大工を兼業。裕福ではないが、温かく穏やかな環境で育ちました。
私の考え方の転機になる出来事が小学校3年生の時に起きました。
大好きだった祖父の死に直面し、悲しみと死に対して悶々と何日も考えていた時、
自宅近くにあった、奥迫家の菩提寺である光善寺の住職、波北彰真(はぎたしょうしん)氏が
”死の意味”と”生まれてきた意味”を教えてくれました。
「よくぞこの世に生まれてきたもんだ!」、苦しいことや悲しいことを打ち破り、「僕は生きているんだ!」と大喜びすること、
「おじいさんも大喜びしてなさると思うよ、こんなに悲しんでくれる可愛い孫がいるなんて素晴らしい人生だったに決まっている」と、優しく話してくださり、
そこから見える景色を指さし、「ほら、見てごらん、光の中で草も木も虫も小鳥も人も動物も照らされているでしょ?」
「それぞれにいのちが輝いているんだよ、みんな精一杯生きているんだね」と、
その時、「一度きりの人生であるならば人の役に立つように生きよう」と心に誓い、私の人生の道しるべとなりました。
高校3年生の時には、突然足に謎の激痛から病院へ行くと、骨軟骨腫という病気がわかり、足の指先にできた軟骨を取る手術のために入院。
手術や学業の事などで気持ちが沈んでいたのですが、医師や看護師による献身的なサポートに感動し、
「医療なら人の役に立てる!」と決心しました。
そこから猛勉強しましたが、私学以外の医学部に入れるほどの学力には届かずで、
友人から全寮制の薬の専門学校があることを教えてもらい、大阪薬種商専門学校へ進学を決意しました。
「人の役に立ちたい!」と志し、入学した専門学校でしたが、同級生のほとんどが薬店の跡継ぎで、親にレールを敷かれて入学した者が多く、
「将来は親の薬局を継ぐくらい」と、話す同級生との温度差を感じ、次第に学業に力が入らなくなり、就職先が決まらないまま卒業を迎え、
卒業後、アルバイトを1年間限定と決め、さまざまな経験をしたかったので最長でも3か月でバイトを変えていきました。
その後正社員として面接を受けるなか、薬業への思いは薄れていましたが、合格したのが薬品会社。
しかし、薬品会社での仕事は経営上、利益率や来店数を高める取り組みが優先され、
お客様一人ひとりと向き合い、カウンセリングをしたうえで販売したいという理想とは大きく異なっていて、同時に気になったのは
「化粧品で、高価な商品を使用している人よりも、シンプルなケアをしているという人の肌がきれいだったりするのはなぜか?」と、化粧品の不思議さを感じながら当時販売をしていました。
販売方法や取扱商品に対する疑問を募らせた私は、24歳の時、【カウンセリングを重視した薬局を作る】というビジョンを持ち、
自分の店を開業する資金を用意するために、出勤前にアルバイトをして、毎月5万円、5年で300万円を貯めることを決め、毎月銀行に預金して、
独立開業や自己啓発に関する書籍を読んだり、漢方や薬膳などの勉強をするなどして、計画的に準備を進めていきました。
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次回のコラムでは、ドクターリセラの原点ともなる、「漢方専門店「薬膳薬局」の開業について」をお話しします。